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IMDb
ニューヨークで生まれ、ジャーナリストとしてキャリアをスタートしたハーマン・J・マンキウィッツ(以下、マンク)。ニューヨーカー誌初の映画評論家となったのちハリウッドに移り、パラマウント社シナリオ部門の長となった。映画『オズの魔法使』('39)では脚本家チームの一員としてカンザスのパートを書き上げただけでなく、モノクロフィルムで撮影するよう指示をしたと言われている。
一時はハリウッドで最も高収入の脚本家だったが、アルコール依存症とギャンブルがキャリアに打撃を与え、1939年にオーソン・ウェルズと出会ったときは仕事を失っていた。
マンクはカリフォルニア州ビクタービルの牧場に隔離され、『市民ケーン』の草稿を書き上げた。作品のモデルとなった新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストとは親交があり、サン・シメオンにある豪邸「ハースト・キャッスル」のパーティーに何度も招かれていたが、ある時ハーストの愛人マリオン・デイヴィスを酔わせようとしたことから出入り禁止になってしまった。
契約上、マンキウィッツは脚本のクレジットを認められていなかったが、最終的に共同名義を勝ち取り、アカデミー賞脚本賞を獲得した。2人とも授賞式は欠席だったが、マンクはもし出席していたら、「ウェルズ氏の不在時に受賞できたことを嬉しく思います。なぜなら、ウェルズ氏が不在の時に脚本を書いたのですから。」とスピーチしたと話している。(『Mank/マンク』のラストも、そのスピーチで締めくくられている。)
1953年、マンクは55歳の時にこの世を去った。
NEW YORK - DECEMBER 1: A formal portrait of Orson Welles at CBS Radio microphone. New York, NY. Image dated December 1, 1935. (Photo by CBS via Getty Images)
幼少期から演劇や漫画などで才能を発揮し、「神童」と呼ばれてきたオーソン・ウェルズ。23歳の時、ラジオ番組で火星人の襲来を臨時ニュース形式で伝え、国民をパニックに陥れた。これによって、ウェルズの名は全米に知れ渡ることとなった。
ウェルズは当時ラジオ番組でチームを組んでいたマンクを、ハリウッド映画のプロジェクトの脚本家に採用。『市民ケーン』に監督・主演した際は、わずか24歳であった。
脚本は共同名義であったが、1971年にニューヨーカー誌のエッセイ「Raising Kane」で、映画評論家のポーリン・ケイルが「ウェルズは『市民ケーン』の脚本を書いていない」と主張。これに対してウェルズは、ストーリーと登場人物について話し合った上でそれぞれ脚本を書き、最終的に自分がマンクと自身の脚本から好きな部分を使って完成させた、と反論している。
NEW YORK - DECEMBER 1: John Houseman, producer of the CBS Radio program, The Campbell Playhouse. December 1, 1940. New York, NY. (Photo by CBS via Getty Images)
盟友オーソン・ウェルズと1937年のマーキュリー劇場を共同で設立し、ウェルズの革新的な作品を上演してきた。1972年の回顧録『ラン・スルー』では、『市民ケーン』の脚本を書く際ウェルズから編集者として雇われ、マンクと共に牧場に滞在したと述べている。
また、1962年、Sight & Sound誌に「『市民ケーン』の脚本は基本的にマンキウィッツのものだった」 と、マンクが真の作者であるとほのめかした。一方で、マンクの孫ベン・マンキウィッツによると、「それでも、これがウェルズの映画であることは間違いない。彼の演出であり、彼の演技であり、彼のビジョンだった」とも語っていたそう。
ハウスマンは1973年に映画『ペーパーチェイス』でアカデミー賞助演男優賞を受賞し、TVシリーズ版でも同じ役を演じていた。
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2021/2/22 更新
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